生かされている事に気づき、恩返しをしていきたい ~“HARD THINGS”を乗り越えて気づいた、自分が本当に実現したいこと~

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今回のプレゼンター:

西村 創一朗氏   

株式会社HARES CEO 複業研究家 / HRマーケター
ランサーズ株式会社 複業社員
NPO法人ファザーリングジャパン 理事

「一人一人が本来の生き方を取り戻す、そして日本から世界を変えていく」 

そんなX-エックス-の理念を実現するために開発された深層対話の技術を公開する車座の新シリーズ

生き方を語り合う 〜原体験が未来を拓く鍵〜

X-エックス-では、今まさに人生の岐路に立ち、これからの生き方を模索している方に向けて、まずは自分の過去を振り返っていただき、対話によってこれまでの生き方を「今までになかった視点から再解釈」していただく事で、新しい未来を切り拓いてもらう場を提供しています。

 

好評だった第一回に続き、第二回を開催しました。

さっそく会の内容を読んでいただく前に、
参加された方の気づきを一部共有させていただきます。

会の雰囲気を感じ取っていただけたら幸いです。

■■■

  • 仕事をしていて忘れかけていた「自分の有りたい姿」を再認識しました。

  • 自分の過去を聞いてもらう中で、自分ではあまり引っかからずスルーしてしまっていたエピソードに対して、(対話によって)聞き手から「なぜ?きっかけは?」などの突っ込みが入るので、もっと深堀りして振り返るべき事があると気づくことができました。また自分の原体験をシェアするのは、本人にとってすごく学びが多いと改めて思いました。

  • 新たな気づきとしては、過去から逃げている自分の存在です。
    深層対話のベースがお互いに作られると初対面の方とでもつながれる、その人の底の方に触れることができ近い存在として感じられる、そんな体験でした。

  • 相手の深層対話を聞くことで、相手自身の深層理解が深まるとともに、映し手である自分の深層理解が深まる事を感じました。

  • 西村さんの人生のストーリーが触媒となって、自分自身の内部に深く潜ることができたように感じています。

■■■

 

ここで大切なことは「対話による新たな気づき」です。

 

自分の原体験を人に話しフィードバックを受ける事で、自分にはなかった視点からの気づきが得られる。

人の原体験が触媒となって、自分のことをもっと深く振り返ることができるようになる。

などは、対話だからこそ得られる気づきといえます。

 

実はこの対話も、ただ相手の話を聞けば良いというものではなく、

X-エックス-独自の対話技術が重要だったりするのですが、

それは、実際に車座に参加していただいた方だけにのみ公開とさせていただいています。

 

興味がある方は、ぜひ次回の車座「生き方を語り合う」へご参加ください。

 

「生き方を語り合う」は、2部のセッションで成り立っています。

第一部は「トークセッション」で、事前に指名させていただいたプレゼンテーターにご自身の原体験を語っていただく事で、参加者のみなさんに「原体験を振り返る旅」を仮想体験していただき、第二部でご自身の原体験を振り返りやすくする雰囲気を作ります。

第二部は「グループワーク」。3〜4名でグループを作り、一人20分で自分の原体験と思われるストーリーを共有し、質問を受け答えする中で、新たな視点から自分の原体験を見つめ直す体験をしていただきます

 

本ブログでは、前半のトークセッション部分にお話しいただいた、複業研究家として活躍する西村 創一朗さんに起こったHARD THINGSを公開します。

参加者の心が開く空気感が会場に醸成されていき、西村さんの原体験を通してみなさんの過去の振り返りも進んでいく様子を、読者のみなさまに少しでも感じ取っていただけたらと思います。

 

という事で、登壇者の西村さんをご紹介します。

会場:(拍手)

西村さん

拍手って気持ちいいですね。

普段は言わないような事もぽろっと言ってしまいそうです。(笑)

 

先週、とある方の結婚式に招待されました。

著名な方で、会自体もそれはとても盛大なものだったのですが、
お二人がお話されたご自身のエピソードがとても印象に残っております。

奥様は若くして重い病気にかかり、病気発覚から10年後にこのような場に立てるとは思っていらっしゃらなかったというお話や、

旦那様は、シングルマザーのご家庭で生まれ育ち、お母様に本日の幸せな姿をお見せできて大変誇らしいというお話を披露されておりました。

とても感動的なエピソードだったのですが、
実は、私の頭の中では全く別の映像が流れておりました。

 

私自身の、親とのエピソードや、妹とのエピソード、妻や妻のご両親とのエピソードと、自分自身のエピソードが走馬灯のように“ばばばっ”っとよみがえり、涙が止まらなくなりました。

 

本日話する内容は、クローズドな場での公開という事もあり、
普通だったら公開できないような事も洗いざらいお話しようとしております。

 

最初にお伝えしたいのは、「本日の主役はみなさん」だという事です。

 

極論私の話は聞かなくても構いません。本日、私の身に起きた「HARD THINGS」を共有いたしますが、先ほどの結婚式のエピソードのように、みなさん自身の過去を振り返るきっかけとして、自分だったらどうすれば良いのかと考えて頂けたらと思います。

 

会場:(拍手)

  • 「妻アシスト」で、ブログの立ち上げを決意

西村さん

この表紙に移っているのが、末っ子の愛娘あずさです。

現在、2歳半になります。

 

彼女が生まれた事がきっかけとなり、会社をやめて独立しました。

 

<西村さんのライフラインチャート>

私の略歴になりますが、
新卒で入社したのは、リクルートキャリアになります。

2011年の震災の翌月、世の中が自粛ムードの中、
会議室の一室でしめやかに開かれる入社式でした。

 

まだリーマンショックの余波も残る中、震災が起きた直後という状況です。

人事に営業をかけても「採用なんてするわけないだろ。」とあしらわれる日々がつづきました。

 

私が担当したのは、楽天、サイバーエージェント、リブセンスなどの大手企業のほか、スタートアップ企業もたくさん担当させていただき、よい経験を積ませていただきました。

 

一方で、営業として入社したものの、ゼロから事業を作る仕事をしたいという思いがありました

 

入社後に、営業として得られるキャリアは、
営業として出世する「縦のはしごのキャリアパス」しかないという事に気付き、
営業を続けても、自分のやりたい「新しく事業を作る」という職種に移れる「ジャングルジムのような横移動のキャリアパス」が無い事が、だんだんと見えてきました。

 

ここで転職する事を考えたのですが、
妻からの「妻ブロック」ならぬ「妻アシスト」が発動しました。

 

「何考えているの?養う家族もいるのに」という現実的な話はもちろんですが、
何より驚いたのは、
あなたはリクルートでやるべきことをやりきったの?」というような上司顔負けの叱咤でした。

 

この一言にはっとさせられて、「もう少しリクルートでやってみよう。」と思いました。

 

 

川元

今の話は、奥さんの言葉が西村さんにとっての「原体験」だったという事ですよね?

 

西村さん

そうです。
妻アシストがなければ転職していました。

そして、転職先でも結局同じような状態になって
「こんなことなら、リクルートに残っていればよかった」なんて言っていたはずです。

 

妻には、本当に感謝しています。

まさに、「妻ブロック」ならぬ「妻アシスト」ですよね。

 

会場:(笑)

 

 

西村さん

そこで、現状維持でも、転職でもなく、
第3の選択肢として、自分のブログを立ち上げる事にしました。

 

学生時代からブログを書いていましたし、
学生時代の人生のどん底の時に出会っていたインターネットの世界でした。

 

もともと発信する事が好きだったので、水を得た魚のようにブログにのめり込んでいきました。

そして、開設から2か月足らずで、月間10万PVのブログに育て上げる事ができました。

 

会場:(驚)

 

  • 独立なんて考えたことが無かった自分が、独立するまでのストーリー

 

西村さん

また、入社直後から「日刊創一朗」という社内向けの情報発信も始めていました。

 

具体的には、毎朝100~200のWeb業界に関連するニュースや記事を読み、その中でも特に読むべきニュースを5~10本に絞ってメルマガ形式でお届けする、という取り組みでした。

その他、新しく出たアプリの何が面白いのか?について自分なりの解説や、

こんな事に困っていたら、こんなツールが使えますよというようなライフハック情報、

自分がすごいと思ったベンチャー企業に飛び込んで、なんでこんなサービスを作ったのか本人にヒアリングした内容を、社内のメーリングリストに、誰に頼まれたわけでもなく自主的に発信し始めました。

 

その内、「営業に西村って変な奴がいるぞ」という風に社内でも噂になりだして、
いろんな人から「うちの部署で勉強会やってよ」「今度おごるから詳しく話聞かせてよ」などと声がかかるようになりました。

 

「君は、本当はどんな仕事がやりたいの?」と聞いてくれる方もいらっしゃいました。

 

そこで、新規事業に挑戦したいという思いを発信し続けた結果、
入社4年目に、晴れて新規事業への異動が決まりました

 

そこで、HR-Tech系の新規事業を作りながら、
ブログをはじめとする複業の収入も順調に伸びていって、
ひょんなことから会社を作る事になりました。

 

しばらくは、2足のわらじ生活を続けていたのですが、

実は、持ち家が多摩センターという、ベネッセやピューロランドなどがある遠方にありまして、

片道1時間半、往復3時間。

週にして、15時間。

月にして、60時間。

年にして、700時間以上の時間を通勤に使っている状態でした。

 

 

「この時間を、新しく生まれてくる娘と一緒に過ごせる時間にあてられたら…」

3人目の娘が生まれる際に、今後人生で後悔することがあればこれだと思いまして、

 

今の働き方を変えよう

 

と、決意しました。

 

そして、自分で働く場所と時間を決められる働き方にシフトするために、

2017年1月 28歳の誕生日のタイミングで独立をしました。

 

 

川元

今、西村さんはさらっと言いましたが、28歳のタイミングですでに独立されているんですよね。

 

 

西村さん

はい、そうなんです。

さらに2017年6月には、ランサーズが取り組む新しい働き方のチャレンジにお声掛けいただき、

週2日働くタレント社員の第一号に選んでいただくなど、

フルタイムではなく「ハーフタイム社員」という新しい働き方を世の中に提唱していく活動を始めました

 

 

  • 本業である「父親業」について

これまでは、仕事に関するお話をメインにしてきましたが、

ここからは、本業である「父親業」についてお話いたします。(笑)

 

私は、19歳で父親になりました。

 

妻は、高校の同級生で、高校生の時からお付き合いしていました。

 

そして、大学1年の夏休み最後の日に、

「来ないね…」

となりまして、八王子の産婦人科に診察に行ったところ、

「赤ちゃんができていますよ。」

という診察結果を受け取りました。

流石に先生から「おめでとうございます。」とは言われませんでした。

 

産婦人科の帰り道、八王子のロッテリアにて初めての家族会議をしました。

二人とも思いは一緒で、産む産まないの話はなく、産むためにどうするかという前提で話がすすみました。

 

これまでの19年間、結構波乱万丈な人生でしたが、

今の妻との出会いは、私の人生を変えてくれました。

散々だった僕の人格を立て直してくれました。

 

そんな彼女との子どもをおろすという気持ちは全くなく、

嬉しいというきもちでいっぱいでした。

 

しかし、現実問題が待ち構えています。

 

妻の両親は、学生での出産なんて到底許してくれないと思いました。

 

大学やめて働こうと考え、ロッテリアにあった「タウンワーク社員版」を手に取り、仕事探しを始めました。

 

その中の求人情報から「未経験でも月収30万」というキャッチコピーを見つけては、

「月30万あれば養っていけるな」なんてことを考えたりしていました。

今思えば、ブラック企業ですよね。(笑)

 

それでも当時の自分は、「これならいける。」と思いました。

そして、お母様への報告の電話を妻がする事になりました。

 

女性のカンってすごいんですね。

まだ何も言っていないのに、「あなた、出来たんでしょ」と、気づかれてしまいました。

そして、電話をガチャンと切られてしまいました。

 

すぐさま、妻と二人で実家に向かいました

 

実家について玄関を開けると、奥の部屋から、お母様がシクシクと泣く声が聞こえてきました。

 

流石に、許可もなく玄関の敷居をまたぐ事は出来ませんので、玄関で土下座をしながら「ので、産ませてください」とお願いし続けました。

 

1時間程土下座を続けていたところに、お父様が帰ってきました。

 

お父様はビックリされた事でしょう。

帰ってきたら、玄関で娘と彼氏が土下座していたのですから。

 

お父様は厳格な方と知っていましたので、私はてっきり殴られるものだと覚悟していたのですが、

「君たちの気持ちは分かった。この場では答えられないから今日は帰ってくれ。週末に話をしよう。」と冷静に対応してくださいました。

 

そして、週末に話し合いの場が開かれました。

 

当初は、特にお母様からの反対が強かったのですが、私の生い立ちを理解してくださり、せっかく苦労して入った大学を辞めるほどの決意をくみ取ってくださったので、

「大学を辞めてまで働くという、彼の決意を信じてみよう。」と思ってくださったようで、無事父親になる事を認めていただけました。

さらにありがたいことに、「いま大学を辞めて働くのは、生まれてくる子どもにとっても良くないから、きちんと大学を卒業して就職をしたらどうか?」と言ってくださり、大学にも通い続けることができました

 

話し合いの翌週からは、妻の実家に引っ越しとなり、マスオさん生活の始まりです。

 

「ホームがアウェイとはこういうことか…」と非常にプレッシャーを感じたものですが、子はかすがいと言いますが、子供が生まれてからは一気に義父母との距離が縮まり、妻がいなくても一緒にゴハンに連れて行ってもらえる仲にまで親しくしていただきました。

 

そういう訳で、「子どもなくして、自分の人生は語れない」です。

 

会場:(拍手)

 

西村さん

長男の名前は「恭一」と書きます。

 

「恭しい」という言葉は、2つの漢字が組み合わさって出来ています。

 

誰かと「共に」過ごす時間を大切にする「心」を持つで「恭」。

その「恭」の気持ちを「一」番大切にしてほしいという願いで

「恭一」と名付けました。

 

「ここまで私は、人に支えられてなんとか生きてこれた。」

「人との出会いが、私の人生を支えてくれた。」

 

そんな気持ちを、長男にも受け継いで欲しいと思っています。

 

会場:(拍手)

 

 

  • 自分の人生を変えた、中学校の先生との思い出

 

西村さん

ここまでは経歴のお話でしたが、

深層という観点から人生を紐解いていくお話をします。

 

全部解説したら時間に収まらないので、かいつまんで共有いたします。

 

私が12歳の時に、両親が離婚しました。父親のDVが原因でした。母親は専業主婦のため、経済的に父親に依存しており、子供が3人もいるので、別れるに別れられない状態でした。

 

しかし、心も体も追い込まれた母は、体重が30キロ台にまでやせ細ってしまい、私が小学校3年生の夏休みに、子どもを連れて昼逃げをし、離婚をしました。

 

母方の祖母の所に逃げ込んだのですが、祖母もシングルマザーのため、母も必死に働く必要がありました。

 

やっと見つけた職は「生保レディ」。

専業主婦で営業スキルのない母にとって、親戚を周りきると、すぐに顧客が枯渇してしまいました。

 

あっという間に売れなくなり、生活をつなぐ為にサラ金を借りる事になり…

追い込まれた母は、重度のうつ病を発症して、一切働けなくなりました

 

うつ病の診察をしてくれた主治医がたまたま制度に明るい人だったため、生活保護の申請をすることで、なんとか生活することができました。

 

そんな環境の中で育った私です。

家にいるのが憂鬱でした。毎日が本当に辛かった。

長男だった事もあり、母が倒れた中、一家を精神的に支えなければという重圧もありました。

 

しかし、唯一のめり込んでいたサッカーも、中一の時膝のケガで続ける事が出来なくなった時に、私の気持ちも「ぷつん」と切れる音がしました。

 

学校に行かなくなったのです。深夜の2時3時までインターネットをしたり、昼はゲームセンターに昼からいりびたったりしていました。

 

学校に行くのは週に1日2日…

 

「今の自分は生きてる価値がない」

そんな風に感じてしまう瞬間が何度もありました。

 

そんな自分を慰めてくれたのは、「インターネット」と「村上春樹の小説」との出会いでした。そのうち、中学生ながら独学でホームページの作り方を学び、創作小説を投稿するようになりました。

 

(中学時代に独自でホームページを作られた西村さんに、会場からどよめき)

 

西村さん

私の小説には、固定の読者が100人くらいついていました。

 

しかし、サボり性な私は、しばらく更新が止まってしまう事があったのですが、そんな時は、読者から「作品がかわいそうです。早く続きを書いてください。」というようなメッセージをいただくこともありました。

 

この経験を通じて、「何かを発信すると、誰かの感情が動き、自分に反響が返ってくる

」事の喜びを知りました。

 

そんな生活をしていた中三の冬休みに、自分の人生を変えた、「先生との進路相談」がありました。

 

先生から「中学卒業したらどうするのか?」と質問され、私は「全然考えていないです。」と答えたことに対して、先生は真剣に怒ってくださいました。

 


創一朗、俺が公民の授業で言ったこの覚えているのか?確かお前はこの授業を聞いていたはずだ。

アメリカ合衆国大統領のケネディは、大統領就任演説で「国民に対して、国が何をしてくれるのではなく、自分が国に対して何が出来るのかを問いたまえ」と伝えたんだ。

お前も家族が自分に何をしてくれるのかではなく、お前が家族に何をするのかを考えないといけないんだよ

 

確かに、この授業に私は参加していたし、印象にも残っていました。そして、改めて思いました。

 


今まで「自分はなんでこんなに苦労しなきゃいけないんだ」と不幸を周りのせいにしていたけれど、15歳の自分はもういい大人なんだから、これからは「自分に何ができるのか」を考えないといけない


ここまで育つことが出来たのは家族のおかげなんだから、恩返しがしたい。もしくは、生活保護のおかげで、国民のおかげでここまで大きくなれた。高校受験をして、卒業したら公務員になって世の中に恩返ししよう

 

自分の人生に目標が出来ました。

それから、冬休みに猛勉強をし、無事、都立高校に入学することができました。

そこで、妻と出会い、二人の間に子どもが生まれて、波乱万丈だけれども、幸せな人生が始まりました。

 

(会場拍手)

 

西村さん

社会人になって、仕事はそれなりにハードワークでした。また、入社一年目のタイミングで、次男も生まれました。

大学1年の時から、子どもを育てながら大学に通っていた自分としては、「大学でサークルや合コンで自由を満喫していたやつには負けたくない」と考え、めちゃめちゃ努力しました。

 

1年目はベンチャーを担当させてもらい、2年目には大手を担当させていただきました。大手を担当させていただくのは、同期のなかでもかなり早い方でした。

 

大手担当は求めるレベルや期待値も高く、自分で自分を追い込んでしまい、疲労困憊で「山手線のホームに飛びこんだら楽になるかも」と考えてしまう時もありましたが、上司や教育担当に助けられながら、なんとか乗り切っていました。

 

26歳の時には、希望していた新規事業部へ異動が叶い、自分が担当したサービスが軌道に乗るなど成功体験も積ませていただきました。

 

そして、28歳の3人目の子供が生まれたタイミングで「育休的起業」に踏み切ったのですが、ここで人生最大のどん底を経験することになったのです

 

 

  • 不安に押しつぶされて、心を無くした瞬間

 

西村さん

いままでも、つらい事から楽になりたいと思った事は何度かあったのですが、

29歳の時に、本気で死にたいと思う経験をしました

起業して、何が起こったのか?

 

起業への準備は万端でした。

子どもが3人いて、35年ローンの支払もある中、収入の見込みがない中の独立は家族からの理解が得られない事が見えていたので、

複業の収入が本業を超えたら独立する

状況になった28歳のタイミングで、満を持して独立しました。

 

ご縁に恵まれ、起業から今に至るまで、いわゆる営業活動は一切なく、お仕事をいただける状態になっており、客観的に見れば順風満帆なスタートと言えました。

 

しかし、「底の知れない不安」が私を襲ったのです。

 

今は順調に仕事いただけているものの、

・35年ローンを払いつづけられるのだろうか?

・オリンピック後に景気が冷え込んだとしたら、大丈夫か?

・子どもたち3人を、無事大学まで行かせられるのか?

「大丈夫」と言い切れる保証はどこにもありませんでした。

不安が増えてくると、人はどうするでしょうか?

その不安を「忙しさ」で埋めてしまうんですね。

 

本来、断るべき仕事ってありますよね。安すぎる仕事だったり、発注先に必要以上にマウンティングしてくる発注元だったり。でも「断ってこの人やこの周りの人から嫌われたらどうしよう」と考えると、仕事が断りづらくなりました。

 

どんどん忙しさが広がり、精神的に消耗していきました。ある日、限界を超えました

 

多忙なスケジュールの中、アメリカで開催されていたHRのカンファレンスに参加したのですが、トラブルで帰りのフライトを逃して帰国日が大幅に遅れ、帰国後も時差ボケで体調がすぐれないというコンディションの悪い状況が続き、そんなタイミングと重なって、娘が倒れました。上の男の子2人の面倒もみなければならず、私か妻がどちらかを見ていないという状態で、子どもにつきっきりの状態になり、さらに妻も体調を崩してしまいました。

 

いよいよ、私のワンオペ状態となりました。私が体力的にも精神的にも限界を迎えるのに、そんなに時間はかかりませんでした。

 

仕事も家庭もうまく回らなくなり、ある日、心を無くしました

 

 

忙しいって心を亡くすと書きますよね。この時の心境は、今もうまく語れません。

 

(西村さん涙ぐむ)

 

ここからGWまでの6ヶ月間は、本当につらい時期でした。

「この世から消えたい」と思うようになり、世間との交流を断ち切って、ずっと家に閉じこもっていました。

 

毎日死にたいと思って、昔流行った「完全自殺マニュアル」という本を本気で読み返したりもしました。

 

3月末には出血性の胃潰瘍を患い、内視鏡手術を受けたのですが、主治医の方から心療内科の受診を勧められ、うつ病と診断されました。

 

この時期にも、いくつかの仕事は細々続けていたりしたのですが、これが回復を妨げているとなって、1か月の間仕事を完全に止めました。

  • 仕事への復帰。そして湧き上がってきた新たな希望

 

うつ病のカウンセリングを受ける中で、なぜこのような状況になってしまったのかを整理しました。

 

「仕事が忙しかった」「家族が倒れた」など、表面的な事象は重なったものの、本当に自分を苦しめているものはなんだろうか?と深層原因を深堀していくと、

「つらい状況を一人で乗り越えてきた」「誰にも弱みは見せたくない」など

全てを自分一人で抱え込もうとしてしまうという、強すぎる責任感によって生み出された無責任さがある事を自覚しました。

 

弱さをさらけ出せないから、「すみません」とちゃんと謝る事ができない

という状況になっている事に、医師との対話で気づくことができました。

 

これまで、「誰かの役に立つから、自分には価値があるのだ」と思い込んでいましたが、カタラを壊して、誰に対しても価値提供できていない自分は、「存在価値がない人間なんだ」と思い詰めてしまっていた事に気付きました。

 

そして、医師から、

“今君と仕事している人のうち、君の機能的な面だけを見て付き合うかどうかを決めている人は、きっと少ないはずだ。「こういう経緯で、ご迷惑おかけしました。」とちゃんと謝れば、きっと君のことを許してくれるはずだ。“

と背中を押され、突然関係を断ってしまった方々に、泣きながら一人一人謝罪をしていきました。

 

スマホから削除していたメッセージアプリを再インストールし、一人一人と連絡を取っていきました。

 

人によっては長時間の電話までいただきました。多くの方から怒られるかと思っていましたが、そんな人はほとんどいませんでした。

「生きていてよかった」

「また元気になったら一緒に仕事しよう」

と言ってくれたんですよね。

 

本当に、生きているだけで価値なんだ

と、人生で初めて思えた瞬間でした。

 

「消えてしまいたい」と思っていた自分が、「生きていこう」と立ち直る事ができた。

そんな自分を支えてくれた人に対して恩返しをしたいという思いが、活きる活力となって体に満ちていくことを感じました。

 

それが、今年の5月の頭くらいの出来事になります。

それから、少しずつ活動量を増やしてきました。

 

「スピード上げすぎると、また怪我するからね」という医師からのアドバイスを守り、

今も週30時間労働に抑えています。

 

 

「株式会社俺」を卒業しよう

経営スタイルも大きく変わりました。

 

これまでは、会社にフルコミットしていない状態で人を雇うなんて失礼なんじゃないかと考えていましたが、僕がいないと成り立たない仕事ではいけないと考えるようになり、人の力を進んで借りるようになりました。

 

いまでは、トータル100人を超えるパラレルワーカーのメンバーが、私のプロジェクトにかかわってくれています。

また社員採用を始め、11月から第一号社員が入ってくれます。新卒採用も始めています。

 

12月には「複業の教科書」という本も出版しますし、複業家を輩出する大学「HARES UNIVERSITY」を10月からスタートします。

 

正社員として週2~3日働く「ハーフタイム社員」という働き方を世の中に啓蒙していきたいし、そんな働き方を企業にマッチングするプラットフォームを作りたいと考えています。

 

やりたい事はたくさんありますが、限られたリソースの中で実現していかなければなりません。

 

 

二兎追って二兎を得る

 

「本業」と「複業」

「仕事」と「家族」

 

うさぎは一羽では生きられません。

一緒に挑戦してくれる仲間が必要です。

 

“HARD THINGS”を通して、私には強い思いが芽生えました。

 

それは、新卒で入ったリクルート時代からやりたいと思っていた本質的な事ですが、

「社会に出ることがためらわれる」

「過労自殺」

そんな社会に、わたしたちの子供送り出したくない。

米ギャラップが世界各国の企業を対象に実施した従業員のエンゲージメント調査によると、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%しかないことが分かったそうです。

米国の32%と比べて大幅に低く、調査した139カ国中132位と最下位クラスでした。

 

私は、このランキングで日本を世界トップ5にする事を実現したいです。

 

そして、父親として胸を張って生きていきたいと思っています。

 

ご清聴ありがとうございました。

 

(会場拍手)

==ここからは、質疑応答になります。==

 

 

川元:ありがとうございます。

 

西村さん

こういう場でプライベートな話をさらけ出したことなかったので、慣れませんね。

私はあまり人前で涙ぐむことはないのですが、今日はちょっときてしまいました。

 

川元

それでは、ここで質疑応答の時間を取らせていただきます。

すごい話の深さにおそらくみなさまもインパクト受けているかと思いますが、何かご質問はありますでしょうか?

 

 

会場

ここで出た話ではないが、西村さんがどん底から復活された際に川元さんの存在が大きかったと伺った事があります。

私は人のつながりというものに関心があるのですが、「お二人がどういうきかっけで出会い」「落ち込んでいた時にどのようなエピソードがあったのか」を教えてください。

 

 

西村さん

川元さんとお会いしたきっかけですが、Papa to Childrenというパパコミュニティの一般社団法人の立ち上げ期にお会いしました。

2年前くらいなのですが、もう一人の共同創業者の雄平さんが、私と川元さんを引き合わせてくれました。

 

川元さんとはお互い「子供にいい未来を引き渡していきたいよね」というビジョンで意気投合しました。

 

また、このX-エックス-のコミュニティの中でも、私の仕事だけでなく、私という人間に向き合ってくれました。

実は、今日の発表にあった「生きていてもいいんだよ」という言葉をくれたのも川元さんでした。本業の収益が厳しい中、寄りそってくれたのが川元さんです。

 

その時、川元さんはどんな思いでしたか?

 

 

川元

 去年の秋ごろに、西村さんのSNSの発信がぱたっとなくなった頃から、「おかしいな。」とは思っていました。

 そろそろメッセンジャーで安否確認のメッセージを送ろうかなと思っていたタイミングで、ヘアーズカレッジ(西村さんが運営するサロン)の中で、西村さんが大変な状況になっているという投稿を別の方がされた投稿を見て、西村さんが大変な状況になっているのだという事を知りました。

 それから、西村さんと直接やり取りをしていきました。

 

 今年の年明けに一度西村さんから「復活宣言」があったのですが結局ダメで、何か自分に出来る事はないのかと悩みました。

 ちょうど去年の8月ごろに、深層対話の原点となるようなものが出来ていましたので、西村さんに何か活かしていただけるのではと思い、

 「週1回30分、話をしてみませんか?」

 とお誘いをしました。

 

しかしその後西村さんがさらに倒れて、、

 

 そういう経緯があって、私としては何もできなかったというのが感想です。

 

 ただただ、西村さんが復活して生きて戻ってきてくれて本当に良かったと感じています。

 

 

 それでは、次の質問に行きます。

 

会場

 西村さんが一番落ち込んでいた時期についてですが、その時の子供達の様子や奥様との関係性、関わりについて、もうちょっと聞かせていただけないでしょうか?

 西村家はどう乗り越えていったのかについて、お聞きしたいです。

 

 

西村さん

 家族が倒れ、一時期は家族みんながボロボロになったのですが、

 娘は、2歳になった3月ごろには症状が安定し、ほとんど倒れなくなりました。

また、妻も4月くらいには体調が戻りました。

 僕だけが厳しい状態が続いておりました。

 

 実は、息子たちも本当に不安だったようで、「我が家はどうなるのか?」「家を手放さなければいけないのでは?」など、彼らなりに心配していました。

 

 しかし、私を責める事なく、見守り続けてくれまし。

 私に必要以上に干渉することもなく、寄りそってくれました。

 

 そんな家族には、本当に感謝しています。

 

 今は、妻や子どもたちの夢を全力で応援してあげたいと思っています。

 

 長男の夢は宇宙飛行士になる事です。そんな長男の為に宇宙飛行士が来るイベントに参加したり、HAKUTOプロジェクトに参加している人と話せる機会を作ってあげたりしています。

 次男の夢はプロサッカー選手になる事です。サッカーのコーチをするなど彼のサポートをしています。

 

 

川元

 それでは次の質問に行きます。

 

会場

 先ほど「生きているだけでいいんだ」という気づきによって、会社や西村さんのスタンスが変わったというお話があったのですが、

 西村さんにとって生きるとはどういうことなんでしょうか?

 ちょっと抽象的なんですが、お答えいただきたいです。

 

西村さん

 僕の中では、答えは明確です。

 

 以前は、For Meで自分の為に生きていました。

 

 今は、自分は生かされている存在であり、人生は自分だけのものではなく誰かの為に使うものだと感じています。

 自分の人生を生きるというより、自分の人生を生きながら誰かの人生を活かす。

 妻、子どもたち、その先にいる人たちに対して。

 そんな風に、人生の使い方が変わりました。

 

(会場拍手)

 

イベントは以上になります。

 

 

本記事の執筆者:
平野 謙  -Ken Hirano-
リクルートにて社内SE、PMO、商品企画を経て、現在は独立開業支援メディア「アントレ」のIT全般のリーダーを担当。
パパコミュニティ「一般社団法人Papa to Children」の理事や、子育てブロガーとして、男性の育児やパートナーシップについても情報発信中。https://lineblog.me/ken_hirano/archives/117528.html

 

==次回予告==

11/15(木)「生き方を語り合う」 〜深層対話を通じたケーススタディ〜

 

X-エックス-が開発した深層対話の技術を公開する「車座」の第三弾!

前半のトークセッションでは、本記事のライターでもある平野 謙さんに深層対話に出会ってからの変化をケーススタディとして披露してもらいます。

 

心を開くという場の空気感が醸成された後、後半が周囲の手を借りながら自己と向き合うセッションとなります。

深層対話の技術が広がり、より本来の生き方に近づく。

そんな時間を一緒に創っていきましょう。

 

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